瀧澤神社

 瀧澤神社の主祭神は祓戸大神(はらえどのおおかみ)の一柱で、災厄抜除の女神・瀬織津姫(注1)である。祓神や水神としても知られるが、瀧や河の神でもあり、それが火防の神と謂われる所以であると思われる。
 その証拠に、瀬織津姫を祀る神社は瀧や河の近くに鎮座する事が多い。これは治水神としての特性で日本神話に登場する水神の特徴にも一致する。

神社発祥の歴史は古く、慶長六年(1601)伊達政宗の仙台入府以前に既に川内瀧澤(現在亀岡八幡宮の在る地)に鎮座ましまし、伊達家四代藩主網村の天和三年(1683)までその地に祀られていた。社殿宏広壮、住民の崇敬を集めていたという。

 その瀧澤神社が同心町(大仏前=現在地)に遷座した経緯は伊達家の氏神である。梁川八幡宮(後の亀岡八幡宮)との社地交換によるものである。
 天正十八年(1590)福島県伊達郡が上杉領となるに及んで、社司岩手山(山田)宮大夫清重、弟重之は密かに御神体を奉じて仙台の地に入り、慶長六年政宗の命により同心町に仮宮を営み、その後寛永十七年(1641)二代藩主忠宗は社殿を造宮して梁川八幡宮と称した。
 四代藩主網村の時、梁川八幡宮を仙台城の坤(ひつじさる=南西)の隅に移す事になり、瀧澤神社との社地交換が行なわれ今日に至った。

 瀧澤神社の新社地となった同心町は、かつて伊達政宗が仙台城下の地割に用いた縄などを仙台の火防を祈念して消却した清浄の地であった為、火防の神・瀧澤神社の遷座には全くもって相応しい土地であったと言える。
 その火防の霊験は昭和二十年七月十日未明の仙台空襲の際にも神殿が焼け残った事によっても実証されている。

 瀧澤神社はその社地の由来によって、測量関係の聖地として古くから大工棟梁達の厚い信仰を集めていたが、更に寛政十一年(1800)学問ゆかりの神様・和歌三神(注2)を合祀するに及んで以降、学者、歌人の尊信を得る事になり、今も勉学に勤しむ、或いは歌作りに励む人達の崇敬を得ることになり現在に至っている。

注1 瀬織津姫(せおりつひめ=瀬織津比売)

瀬織津暇は祓戸四神(祓戸大神)の一柱で災厄抜除の女神であり、祓戸四神とは、神道において祓いを司る神であり、祓いを行なう場所に祀られる神である。
 『延喜式』の「六月晦大祓祝詞(みなづきつごもりのおおはらえののりと)」に記されている瀬織津比売・速開都比売(はやあきつひめ)・気吹戸主(いぶきどぬし)・速佐須比売(はやさすらひめ)の四柱を祓戸四神といい、これらの神は葦原中国(あしはらのなかつくに=日本の国土)のあらゆる禍事・罪・穢れを祓い去る神で、「大祓詞(おおはらいのことば)」にはそれぞれの神の役割が記されている。
 それによると、瀬織津姫についてはもろもろの禍事、罪、穢れを川から海へ流すという、神道における究極の目標である禍事、罪、汚れを祓い去るという一連の過程の一番初めに位地するのが瀬織津姫であり、その役割は大きい。

注2 和歌三神

 和歌三神とは、住吉神明・柿本人丸(柿本人麻呂)・衣通姫(玉津嶋明神)をいう。

三神の一柱・衣通姫について

記紀(古事記と日本書紀)に絶世の美女と伝承されている女性。余りにも美しい女性であったため、その美しさが衣を通して輝くことからこの名がある。
本朝三美人の一人とも称されている…。

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