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本町の歴史

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rekishi_01_06.gif伊達政宗による仙台開府が始まると同時に、本町二丁目の歴史もスタートしました。城下町は、仙台城から東進する幹線と江戸と奥州を結ぶ奥州街道を中心に、碁盤の目状に町割りされました。開府当初の城下は、南は広瀬川、北は北山から北四番町、勾当台通りと続き、元寺小路が北東の端となっていました。現在の仙台市とくらべると遥かに小規模なものでした。
現在の本町二丁目は元寺小路とも呼ばれ、開府当時から城下町構成の原則通り、町を守る防衛線として寺院が配置されました。現在の勾当台公園付近には「定禅寺」があり、その東南隣に観喜院(大聖寺)、さらに千手院、亀岡八幡、木食、観音堂(満願寺)、光円寺、密乗院などの寺院が立ち並んでいました。寛永年間(1624~1644)に寺院の一部が、天和元年(1681)に亀岡八幡が移されると、百石前後の侍屋敷と寺町に割られ、「元寺小路」と呼ばれるようになりました。幕末の頃には、職人町や門前町、そして武士の屋敷などで構成される町に変わり、明治維新後は商人の町へと姿を変えていったのです。当時から定禅寺通りの北側は高台になっていて、元寺小路に向かってゆるやかに下る勾配に沿って、東三番丁を下るきれいな水が流れる堀がありました。


_DSC9067.jpg_DSC9067.jpg 仙台メディアテークの市民図書館に残る明治13年の地図を参考に現在の本町二丁目と比べてみると、定禅寺通りは東三番丁との角で南に下るようになっていて、東には行けないようになっています。愛宕上杉通りは無く、西から東二番丁、東三番丁と続き、東四番丁は元寺小路までになっています。藩政時代から残っているのは、現在の江陽グランドホテルの北側にある「赤井横丁」、東三番町から齋藤報恩館に通じる「元貞坂」、錦町交番から東三番丁に下る「大仏前通り」などで、本町二丁目の南を走る「広瀬通り」や東に位置する「愛宕上杉通り」は戦後にできた道路です。元貞坂は、亀岡八幡があった頃、その西にあった別当寺の千手院の門前の通りと見られ、元貞と言う名の医者が住んでいたことが名称の由来とされています。_DSC9054.jpg_DSC9054.jpg

_DSC9064.jpg_DSC9064.jpg 明治年間、現在の錦町公園付近には県立の宮城病院があり、明治末に北八番丁に移転され、東北大学医学部付属病院となりました。その跡地には東本願寺別院ができ、幼稚園も建てられました。この場所は、大正年間に予備校もでき、その後育英中学となっていくのです。
昭和8年~13年の地図を見ると、現在の錦町公園やホテル仙台プラザのあたりには、育英中学、東本願寺別院、幼稚園、大聖寺の文字が見られ、錦町公園の南側には「大仏」の文字が見える。この時代まで大仏があり、現在でも「大仏前」と書いて「おぼとけまえ」と呼ばれています。_DSC9059.jpg_DSC9059.jpg